愛猫の死に対し家族と感情の温度差がある理由

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ペットは家族だと感じるのが当たり前な時代になったとはいえ、ペットの死にどう向き合うかは家族間で全く違うケースもあり、戸惑ってしまうといったことも起きます。
あなただけでなく「ペットは家族だと」いつもそう言っていたはずの家族が、あなたの目にはそうは映らなくなるのです。

愛猫の死を受け入れることすら難しいあなたと違って、家族は凄くドライだ、平気そうだとあなたには感じるのです。
毎日一緒に生活していたじゃない!家族だって言ってたじゃない!と憤りを覚えるかもしれません。

まず大前提として、ペットロスには個人差があります。
悲しみの表現や回復までの時間も違ってきます。

「違って当たり前」だということは、愛猫が亡くなる前、死に瀕する前なら100%理解していなくても、あなたもわかっていたはずなんです。
愛猫の病を境に家族と感情の温度差があると思い始めた方もいるでしょう。

悲しみという感情の温度差は、友達や同僚、パートナーなど家族以外の人間関係でも起こりえます。
家にいれば家族との温度差を感じ、辛いからと友人に相談すれば「仕方ない」と言われ、更に悲しみや怒りが増す可能性すらあります。

「泣いても仕方ないでしょ?あなたがどんなに泣いても○○は戻って来ないんだから。」
「わざわざお葬式までするの?ばかげている」「病気長かったから、正直ホッとしたんじゃないの?」

愛猫の死を悲しみを乗り越えられない立ち直れない

「いつまでも泣いていたら、あの子が悲しむでしょ?」という感じで慰めが入った言葉ならまだしも、中には「いつまでもクヨクヨしないで、鬱陶しい」と、到底受け入れられない、ただ責めるだけの耐え難い言葉を投げかけられることもあります。

また、悲しくて部屋にこもりがちなあなたに対して腫れ物に触るような態度で接してきて、孤独感を深めてしまうかもしれません。

悲しみとの向き合い方は千差万別

あなたにとっては到底受け入れられない言葉を投げかけ、態度を示しても、家族同士でも温度差があるのは仕方のないことなのだと諦めてください。
あなたの目に、どんなに酷く映っても、全然悲しいわけじゃない。悲しみとの向き合い方は千差万別なのです。

あなたと同じように悲しまない、泣かないのは何故なのか。
特に家族間の温度差について、その理由を考えてみましょう。

温度差は何故おこるのか

大きくまとめると、人の感情は心の奥底にある何かが邪魔をしている可能性があり、そこには立場の違いや生育環境の違いがあるからです。
この中の一つだけではなく、複数当てはまる場合も多く、これが全てでもありません。

  • ・死を受け入れていない
  • ・悲しむ、泣くのが怖い
  • ・家事ができなくなる
  • ・勉強に集中できなくなる
  • ・仕事がおろそかになる
  • ・非日常的である
  • ・どうしていいかわからない
  • ・後悔の念しかない
  • ・忙しさに紛れていないと悲しみに耐えられない
  • ・家にいると悲しみに覆われるから出歩く
  • ・早く忘れたいから友達と遊ぶ日を増やす
  • ・目の前で泣かれると悲しみがぶり返す
  • ・感情の表現がそもそも苦手
  • ・思いっきり悲しみに浸る時間がない
  • ・悲しむことを家族から許されず育った
  • ・悲しみに対処出来る
  • ・立場や環境の違い

受け入れたくない
愛猫が亡くなっても、しばらく涙さえ出ない人もいます。

それは、まだ死を受け入れていない、受け入れたくない、愛猫が死んだと認めたくないといった感情。
非日常的な出来事に心が追いつかず、どうしていいかわからない、ただただ茫然としている場合もあります。

後悔や贖罪の念
愛猫へ「もっとこうすれば良かった」と後悔の念を抱いていて、悲しみより自分自身への怒りのようなものにとらわれ、
そんな風には見えないあなたに、半ば八つ当たりのようなことをしているのかもしれません。

ペットが亡くなると、もっとできることがあったんじゃないか、もっとこうしてたら、ああしてたらと思ってしまう人が多いです。
後悔や贖罪の念があると「こんな自分に泣く資格はない」と、自分自身を追い詰めてしまうケースも。

愛猫の死で後悔ばかりしているあなたへ -ペットロス-

悲しむ、泣くのが怖い
もし、泣いてしまったら悲しんでしまったら、自分の感情をコントロールできなくなるんじゃないか、そうなると日々の生活や仕事に支障が出る、ペットロスで鬱になるかもしれない。
泣き悲しむ行動を制御してしまっている可能性があります。

泣いてしまうと、すぐに涙は止まらず、一気に負の感情に襲われ、目の前のことが出来なくなってしまいます。
それで誰にも迷惑をかけないならまだしも、人が生きて暮らしていく中では、何もしないで過ごすというのは難しいですからね。

感情の表現が苦手
感情の表現がそもそも苦手な人、それは私自身もそうでした。
素直に喜ぶ、悲しむ、怒るといったことが苦手で、そうできる人がうらやましくさえ思っていた時期もありましたから。

悲しくて悲しくて涙が止まらないあなたをうらやむ気持ちから、ついキツい口調で咎めるような言葉を吐いてしまう。
心の奥底では自分も同じようにありたいのに。

昭和世代だと子供時代に「男が泣くもんじゃない!」と育てられたお父さんや、「家族のために尽くすのが母親」と育てられたお母さん。
そういった人は自分の子供にもそのままの子育てをすることがあります。

育った環境の違いが感情表現の違いになることも多いので、家族同士の温度差をどうか責めないでくださいね。
悲しい時に泣けないこと程辛いものはない、本当は苦しいのに、それに気付いていないことさえあるのです。

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悲しみに対処出来る
例えば、あなたのお母さんが子供の頃からずっと、犬や猫がいなかったことがない位だとしたら。
もしかしたら何度も悲しい経験をして、悲しみにどう対処すればよいのか、その人なりの答えを得ているのかもしれません。

対処できていることが、あなたの目には冷たく映る、悲しみを共有してくれないと感じるのかも。

立場や環境の違いがある
その人が今置かれている状況や年齢でも違いがあるでしょうね。

悲しみにひたっていたいけど、それが許される環境や状況にない場合も多く、日々の暮らしそのものや目標、仕事を自分のせいで危うくしかねない。

例えば働き盛りの人が「涙が止まらない」から仕事に行けなくなってしまったら?
小さなお子さんがいる家庭なら、自分の悲しみより目の前の子供の世話を優先せざるをえません。

  • ・小さな子供がいる
  • ・介護も家事もしている
  • ・仕事も家事もしている
  • ・家事だけでも大変
  • ・仕事に追われている
  • ・受験生
  • ・責任ある立場にいる

いつか、互いに「あの時は」と話せる日が来るといいですが、人の感情、本音かな。
本音は簡単にわかるものではありません。

愛猫の死に対して家族と悲しみの温度差が仮に激しくあったとしても。悲しいわけじゃない。
それだけは忘れないで下さい。

相手を思うからこその行動

愛猫が亡くなって悲しくない人はきっといません。
色々な理由から表に出さないだけで、上記の理由の他に、あなたを家族を思いやってのことが多いのではないでしょうか。

愛猫が亡くなったあと、そのままにはしませんでしょ?
簡単なお葬式をあげたり、火葬を行う必要があります。

そういった一連のことが終わるまで「しっかり対応しないと」と、気を張っているかもしれません。
悲しみにくれるあなたの心の負担をどうすれば少しでも軽くできるかと、考えているかもしれません。

おめでたいことや楽しいこと、明るい話題は誰しも反応をしやすく、その直中にいる人に声をかけやすいものです。
「保護猫のお迎えが決まりました」といったことは「良かったですね」「猫ちゃん幸せにしてね」と、報告された側も応えやすいですよね。

それが「愛猫が今朝旅立ちました」となると、なんと応じてよいものか考えてしまいます。
家族同士ですら「○○ちゃん頑張ったよね」「寂しくなるね」「残念だね」・・・どんな言葉もなんだか違う気もするし、悲しみにくれる家族に、なんと言っていいのか悩んでしまいます。

例えば、目の前で泣いている娘に声をかけるのも戸惑われ、ただオロオロしているお父さんの姿などは容易に想像できるでしょう。

また、誰かが「悲しい」「どうして死んじゃったの」と言えば、家族全員が悲しみの底に沈み、様々なことが停止してしまうといった状態も起こりえます。
それが怖くて何も言えない、涙を我慢することもあるでしょう。

私は自分の感情をうまく表現出来なかった過去があるので、特に悲しみは我慢しないようにしています。
もし、私が泣くことで家庭の雰囲気が暗くなるなら、ある程度の我慢はしてしまうかもしれませんが。

また、悲しみは我慢しないようにしてはいますが、毎日泣き暮らしていては何もできなくなります。
しばらくはみるくやココアの画像を見るのも辛く、画像を見れなかった時もありました。

ですので、先に亡くなったココアのお位牌を作ったのは、たしか1ヶ月後だったと思います。
はじめは遺骨に話しかけていましたが、次第にココアの顔を見て話したくなるといった、心境に変化も起きました。

悲しみへの対応は、本当に千差万別。正に人の数だけあると言えます。
改めて書きますが、あなたが感じるご家族との温度差、それは存在して当然のこと。

「どうしてわかってくれないの?」が、ほんの少しでも「そっか、違うのは仕方ないんだね」と思えると良いですね。

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私が経験した話

最期に私自身が経験した、ペットの死に対する家族との温度差を書いてみたいと思います。

初めての死に直面
私が小学生時代、昭和の家庭あるあるで、セキセイインコ、カナリア、キンカチョウ、カメ、金魚を飼っていました。
当時は本当に狭い社宅住まい、小鳥は飼うスペースをさほど取らないとはいえ、よくこんなにと思います。

何故なのかは記憶していませんが、セキセイインコのつがいが入った鳥かごだけ、天気が良い日は外に出していました。
そんなある日、外に出していたインコを母が家に入れようとしたら、2羽とも死んでしまっていたのです。

記憶のある限り、この時私が初めて「死」というものに直面した日でした。
何歳だったかまで覚えていませんが、小学校低学年だったのは確か。

死んでしまったと聞いて、当然私は泣き出します。
その私に母は「泣きなさんな!たかが小鳥が死んだ位で!」と半ば怒鳴るように𠮟りつけたのです。

そんな風にされて泣き止むわけないじゃない、母のその強烈な態度もあって、更に泣きますよ。
すると「めそめそしなさんな!うっとおしい!」と追い打ちをかけられます。

私を見かねて、父が抱きしめ慰めてくれました。
言葉はありませんが、ただ「よしよし」と。

でもそれだけで十分でした。特に自分の気持ちをうまく表現できない子供には最善だと今でも思います。
母は忌々し気にその様子を見ていたのも覚えています。

キンカチョウが卵を産み雛がかえった時、一羽巣から落ちてしまう出来事がありました。
母はその雛を空き箱に移し、ある程度大きくなるまで母がエサを与えるといったこともしました。

テレビ番組で不幸な境遇の動物を観れば涙していましたし、生き物に対して特に冷たいわけではないのです。
だから余計に戸惑うし、母が理解できませんでしたね。

主婦とはいえ、子供二人がいる家庭、小鳥の死を嘆き悲しむ暇がなかったのだ・・・と大人になるにつれ思うようになりました。
でも違う。母はいわゆる毒親ですね。ここでは違う話になりますので、またいつか書きたくなったら。

私と主人の違い

2022年に、18年と言う長い月日を共にした、ココアとみるくが相次いで旅立ちました。
私は棺代わりの猫のベッドに、沢山お花を入れ、火葬の際もまた沢山お花を入れ送りました。

私も主人も泣いてはいましたヨ。
でも私がちょっとというか、相当驚いたのが、逝ってしまったココアを横たえ花を飾った後、主人がスマホを持ってきて「カシャ」。

遺体を撮影したのです。内心は血の気が引くほど驚くというか、正にドン引き状態。
もう息をしていないこのコを今更撮影?意味わかんない!と。

翌日ココアのお葬式の時、私は本当に自分で驚くような心境の変化や、私が沢山お花を入れて「いかないで」と泣きじゃくったことと、主人がスマホで遺体を撮影したのは、どちらも、それぞれの送り方なんだと理解したのです。

SNSで、そういった画像をアップする方も中にはいますよね。

また、非日常的な場面は、人に咄嗟の行動をさせます。
日頃から非常識な人ならともかく、そうでないなら責めてはいけない、この人も悲しいのだから。

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